2016年3月6日 礼拝メッセージ
闇は逃げることが出来なくなった ヨハネの福音書1:4~5
私たちは、ただ神様のみを礼拝し、生きる全ての領域を支配し導く主に向かって成長している者です。このことは「信仰によって生きる」ということを意味しています。
イエス様だけを見つめると云うことは、イエス様を見上げる人生の歩み方であり、信仰です。
私たちは、イエス・キリスト様に生きる基礎を置きます。
ですから、基礎はイエス・キリスト様です。
この基礎の上に、私という建物を建てていきます。
基礎がしっかりしていれば、さらに高く建て上げ、増し加わる必要があっても、高く建てましが出来ます。基礎がしっかりしていないと、大波が来た時に、大風が吹いた時、嵐が襲ってきても倒れません。大波とは、大風とは、嵐とは、試練であったり、困難であったり、惑わしであたりと、そう云うことです。
マタイ7:24~29
24、だから、私のこれらの言葉を聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建て、賢い人に比べることが出来ます。
25、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いて、その家に打ちつけたがそれでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
26、また、私のこれらの言葉を聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分を建てた愚かな人と比べることが出来ます。
27、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。
28、イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
29、というのは、イエスが、律法学者たちのようではなく、権威ある者のように教えられたからである。
この御言葉の意味は誰でも分かる内容ですが、
この御言葉の中心テーマは『権威』です。
29節、「イエスが、律法学者たちのようではなく、『権威ある者』のように教えられた。ということを学びましょう。
それでは、「権威とはなんでしょうか。」
ローマ13:1~3
1、人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威は全て、神によって建てられたものです。
2、したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は、自分の身に裁きを招きます。
3、支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをする時ではなく、悪を行なう時です。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。
『創造主なる神の上にだけにしか、真の権威はありません』
『父なる神、イエス・キリスト、聖霊様。の三位一体の神です。』
『それぞれは人格を持っていますが一つです。』ここは重要中の重要です。
権威は恐ろしいものではありません。
只「従順」すれば良いのです。
ですから、権威に逆らう者は、権威を恐れます。何故ですか、自分の思いが先だからです。
真の権威に逆らうと、『裁き』が来ると聖書は言います。
私たちの生き方の中に、イエス・キリスト様に基礎を置くならば、何も恐れることはありません。
コロサイ1:16~20
16、御子は見えない神のかたちであり、造られたすべてのものよりも先に生まれた方です。
17、何故なら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。
18、また、御子はそのからだである教会のかしらです。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。
19、何故なら、神は御心によって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
20、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自身と和解させてくださったからです。地にあるものも、天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
イエス・キリスト様が全ての権威のはじめと語られています。そして、『イエス・キリスト様が教会のかしら』だと語っています。
イエス様が教会のかしらです。それは、十字架の権威が教会にあるからです。
教会は牧師が権威を与えられています。そして、教会も権威と共に、教会を形成し、教会のために命を張のです。
牧師が最後に『祝祷』をしますね。この礼拝がイエス様の中で祝福され、この一週間が主の中で生きることが出来ますように。という意味です。
この終わりの時代にあって、『終りの日の教会』は、どの時代よりも主の恵みと力を注いでくださることが約束されています。
使徒2:17
17、『神は言われる終わりの日に、私の霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたがたの息子、娘は預言をし、
青年は幻を見。
老人は夢を見る。』
Ⅱテモテ3:1、12
1、終わりの日には困難がやってくることをよくし承知しておきなさい。
12、確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。
先週も話しましたが、『時は短い』「間もなくイエス様は来られます。」それゆえに、「霊的速度が、終末に向かっています。」
偽預言者が現れます。
偽キリストが現れます。
彼らは、クリスチャンを迫害します。
人間はこの地上に生まれ、神の時の中で生き、神の時の中で天に帰ります。
1月に東京で「ビル・ジョンソン」の聖会がありました。いやしを求める方たち、聖霊のバプテスマを受けたい方たちが、自分の必要に従って、牧師に祈ってもらう時がありました。私は、「いやしの担当」として奉仕をさせて頂きました。長い列が出来ていました。耳が聞こえない方、片足が不自由な方、沢山の方々が祈ってほしいと列を組んだのです。私はその人たちの願いの三分の一くらいの方が、赤ちゃんが授からないのです。赤ちゃんがほしいのです。先生祈ってください。と云う方々でした。結婚して、かわいい赤ちゃんを夢見るのは当たり前のことです。世の中では、こういう悩みを持っておられる方々、数えることが出来ない程、沢山おられます。
私は、この現実に驚きました。クリスチャンですから牧師に正直に話しても大丈夫という信頼関係が不思議と出来ているのですね。クリスチャンの女性がこんな悩みを持っておられることを初めて知りました。
牧師はそれ以来、大きなチャレンジを与えられました。石川先生がお祈りすると、赤ちゃんが与えられる。そういうことが起きたならば素晴らしと強く思いました。牧師が祈ると、超自然的いやしが起きて、赤ちゃんが与えられる。
「私は、聖霊様、子どが授からないご夫妻に赤ちゃんが生まれるような、あなたの力を与えてください」
昨年、奥山先生が来てくださった時に、僕が祈った方はみな子供が与えられている。おっしゃっていましたね。
自分の力ではありません。聖霊様が成すことですが、そういう賜物が与えられたいと強く願っています。
実際に赤ちゃんを求めて、心が疲れてしまうほど、悩んでいる方々がおられる一方で、赤ちゃんを虐待して死なす。そうならば、正直になって育てられない
と言えば、赤ちゃんを求めている方々に育ててもらえば良いのです。本当に不条理です。
ウサギ小屋で大きくなるまで入れて置く。そして死なす。赤ちゃんは動物ではありません。かわいそうに。本当に不条理です。
どうしてこうなるのでしょうか?「悪魔悪霊どもが動ごめいています。一人のたましいを殺すのは、悪魔悪霊どもがその人の心の良心をふさぐからです。
かわいそうに思わないで虐待するのは、生きる環境が悪いのではありません。
悪魔悪霊どもが、その人の心に中に入り込むからです。悪魔悪霊どもは、赤ちゃんを虐待せよと命令しているのです。
「聖書はあらゆる悪は、悪魔悪霊どもだと説明しています。」
「聖書に最新情報があります。」
1973年 石巻の産婦人科の菊田 昇医師が、人口中絶を疑問に思い、中絶する女性に、あなたの子供を養子縁組にしてくれないかと話し、100人の赤ちゃんを救いました。しかし、当時、養子縁組の法律がなかったために、医師免許をはく奪されるという事件が起きました。当時は事件でした。いやな言葉ですね。
菊田医師の奥様がクリスチャンで、その後、クリスチャンになりました。その時神様は、一人の牧師の辻岡健象牧師と菊田医師の出会いを与えられました。辻岡牧師は、菊田医師のあとを継ぐように、「小さな命を守る会」を創設されました。
この「写真集」と、ビデオ=「聞こえますか?天使の鼓動」は素晴らしいですよ。辻岡先生ご夫妻の姿は輝いています。赤ちゃんが与えられない一つの理由は赤ちゃんを産めない女性の病があるかも知れません。あるいは男性の方に生理的問題があるのかも知れません。先生ご夫妻は、養子を求める方が起こされるまで自分の家に預かり、赤ちゃんを欲する方が現れると、飛行機でどこへも行ったのです。また、クリスチャン産婦人科医師、石黒先生もこの働きの一旦を担っておられます。
私は、先生とクリスチャン大学生のキャンプが山形でありました。私は、「老人問題」を担当してほしいと依頼されて、その時に先生と出会いました。先生と話しをする機会が与えられて、先生の強い信仰の姿に感銘を受けたのです。先生の働きで、数え切れない赤ちゃんが救われ、一人だけではなく、二人目もお願いされるご夫妻もおられます。
現在は、辻岡先生が高齢になり、國分広士牧師があとを継いでいるようです。
私たちが平塚にいた時に、一人のご夫妻が来られて、「赤ちゃんがほしい」と言われました。奥様の腎臓が悪く、自らの力で赤ちゃんを産むことが出来ないことをお話ししてくださいました。私は、辻岡先生と御茶ノ水クリスチャンセンターでお会いして、実現する一歩手前まで生きましたが、違う団体にも話していたようでした。その団体から養子を頂きました。そのあとすぐに辻岡先生から電話がありましたが、すれ違ってしまいました。
神様が与えた命です。
目を世界に転じると。人の首を斬首する。とんでもないことです。テロが起きます。とんでもないことです。どうしてこんなことが起きるのでしょうか。
この世の暗闇の勢力。悪魔悪霊どもです、この名の根源は「ルシファー」です。
エペソ1:1~5
1、神の御心によるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。
2、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
3、私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
4、すなわち、神は私たちを世界の基礎の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
5、神は、ただ、御心のうちのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
私たちの命は、神様が定めてくださっていることを知った者です。
しかし、闇の勢力がいつも襲ってきます。
同じ、エペソ6:11、12
11.悪魔の策略に対して立ち向かうことが出来るために、神の全ての武具を身に着けなさい。
12、私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
この世で信じられない出来事は、悪魔悪霊どもが支配しているからです。悪魔悪霊どもは人々を惑わし、神様の方向に目を向かわせないために、ありとあらゆる手段を使うのです。
イエス様が人となって来られた理由は次のようです。
アダムとエバが悪魔はアダムとエバ捕まりました。悪魔はこの時代から存在するのですから、甘く見てはいけません。
みなさんは、栄子先生の小冊子を読まれましたね。
スチーブンス・子先生の闇の力に対する鋭い見方をご一緒に学びたいと思います。
「神の栄光 シャカイナグローリー」をみなさんよみましたか。
この小冊子ですごいことが書いてあります。
ヨハネ1:4-5
4、この方に命があった。この命は人の光りであった。
5、光は闇の中で輝いている。闇はこれに打ち勝なかった。
アダムとエバが罪を犯すまで、人は神様と顔と顔を合わせるような個人的交流を行なっていました。しかし、この闇の世界に入った後、もはや会うことが出来なくなりました。闇と光は混じり合うことが出来ません。神さまがどれ程アダムとエバを光の世界に戻したくても、闇は光から逃げて行き、助け出すことが出来ません。そのために、イエス様は闇の世界に人間としてお生まれにならなければならなかったのです。闇の中にイエス様が入って来てくださったゆえに闇は逃げることが出来ず、イエス様が十字架を通して、闇に中の子どもたちを助け出すことが出来たのです。
神様は、闇の中に手を伸べて彼らを助け出したいと思われますが、光である
神様は闇の中に指一本触れることが出来ません。光によって闇が逃げていくからです。全地全能の神様はこのことをご存じでした。人間を救い出す計画を備えておられました。世界の基の置かれる前から、キリストを通して私たちをきよい者とされ、神様の御許に戻れるように、再び神様の栄光に包まれるようにご計画を進めたのです。
闇は光が来ると逃げていく。ですから、闇の中にイエス様が入って来てくださったゆえに、闇は逃げることが出来なくなったのです。
ここは重要ですよ。もう一度言います。「闇は逃げることが出来なくなった。」
なるほど。すごく分かりやすいですね。私も勉強になりました。
クリスチャンは、自分の都合の良いようには生きません。
自分で自分を見ることをあいまいにすることをしません。
まことの聖霊様に覆いの中にいたいと切に求める者です。
しかし、悪魔悪霊どもは、
人間の頭の中が混乱させられること気が付かないように策略を練っています。
自分は自分の力で生きている、あるいは生きて来たと錯覚させます。自分で自分を見つめないことは『霊的盲目状態』でいるようにします。
人々が、アダムとエバが悪魔悪霊どもにだまされて『霊的死』迎えたと同じことが自分自身の中にあると気が付かないように目を盲目にする専門化です。
伝道しましょう。
御言葉は何と言っていますか。
悔い改めなさい!!!
ですから伝道します。
3月26日と27日のミラクル集会を待ち望んでいます。
病のある方々が、いやしを求めて沢山の方々が来てくださることを祈りましょう。
今年も再びスチーブンス栄子先生が来てくださいます。
ほんとうに嬉しいです。
私の意見ではなく、7月18日(祝日)で良いですか。
はい、分かりました。で終わりです。
私たちの教会は、牧師が講師を要請することはありません。
不思議にも、先生方が行って良いですかと、言われて特別集会を持っています。
不思議ですけれども、イエス様から愛されているだと思います。
聖書は「愛を追い求めなさい。」とはっきり表明しています。
私たちは、最後には神様の前で「裁きの座」に立たされます。
私たちは「はい」か「いいえ」しかありません。
世で生きるためには、非常に厳しいです。
そこで神様は私たちに「知恵」を与えました。
知恵をどこで得るかと言いますと。箴言が良い基本になります。
箴言8:12~14
12、知恵である私は分別を住み家とする。
そこに知識と思慮がある。
13、主を恐れることが悪を憎むことである。私は高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじられた言葉を憎む。
14、摂理とすぐれた知性とは私のもの。
私は分別であって、私には力がある。
知恵である私は ⇒ 神様です。
私は分別であって、私には力がある。 ⇒ このお方は神様です。
まことの知恵を求めましょう。
先程の辻岡先生の「小さな鼓動のメセージ」の本の中に一文です。
子供たちへの事実告知
「守君と牧子ちゃんのことだけれど・・・」
近所の人が声をかけてきた。いかにも、血がつながっていない本当の親子ではないと言いたげであった。
しかし高橋夫妻は、もはや単なる肉体的な血のつながりだけで真の親子であるとはどうしても思えない。二人の子どもを迎えて以来、人間的な血縁よりもさらに強い、神の愛の絆で固く結ばれていたからである。
「あなた方は、神が結び合わせてくださった、特別に祝福された神の家族です。その事実を親の口から直接証し出来るのは、素晴らしい恵みですね。」
私は、事実告知の必要とその時期について夫妻と話し合ったことがある。そして少し厳しいが、告知をして子どもたちが離れていくようでは親としての資格がないということでしょうとも言った。
守と牧子は、人間の思いをはるかに超えた神の愛と計画によって与えられた子供たちである。とすると「望まれずに生まれた子」と表現す人がいる。しかし夫妻は、子供たちを抱きしめて、感慨深く言う。「六年間祈っていたのですから、六倍望まれ、六倍恵まれた子どもたちです。」と。
二人の子を迎えたのは、家を継げせるためとか、老後の面倒をみてもらうためではない、彼らは、子どもと一緒にいるだけで幸せだったのである。守は保育園の人気者になり、牧子は家庭を愛の泉とした。
守五歳、牧子三歳の九月の日記には、次のような親子の会話が記されている。
妹・ママのおっぱいはどうして大きいの?私も大きくなったらママみたいになれる?
ママ・そうよ。
兄・ぼくが赤ちゃんの時、ママのおっぱい出た?
ママ・出なかったの。
兄・どうして?
ママ・あのね。ほんとうは二人とも、別の女の人から生まれたの。でもイエスさまが、パパとママの所に行くのが一番いいよって言ったからここに来たのよ。
兄・フーン、そうか。イエスさまが、ここが一番いいって来たのか。ママってやさしいね。ぼく、ママとパパのところでよかった。
ママ・パパとママもうれしいよ。だって、二人とも世界で一番すてきな子どもだもんね。
兄・ママありがとう。
妹・パパありがとう。
「実は、あなたたちはね」と、かしこまった場を設ける必要もなく、ごく日常的で自然な親子の会話の中で事実告知が出来たのは、彼らの愛と祈りの結果であった。愛をしっかりと確かめ合い抱き合った温もりを、この親と子は生涯忘れることはないであろう。
祈ります。
私たちを愛してくださる父なる神様、今日、今、あなたの御前に出でて、礼拝をし、あなたを誉めたたえることが出来る幸いを感謝いたします。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。と言われた御言葉を思いの中に入れながらこの一週間を歩みました。しかし、私の弱さゆえに、神様を悲しませたこともありました。心から悔い改めます。この時に御言葉を通して、再び新しい日々を送れることを感謝いたします。聖霊様がいつも私に伴ってくださったことゆえに今日があることを知っています。教会は間もなく、ミラクル集会があります。この時のために、準備し、労していることが出来ることがどんなに嬉しく、幸せであるかをかみしめます。これからの一週間を御言葉に忠実な毎日でありますように導いてください。世界では着るものも、食べるものも、飲む水も不足している難民の方々を覚えます。イスラエルの国では、パレスチナの若い子どもたちがハマスの洗脳教育を受けて、ナイフをもって人を殺す出来事が絶えません。世界中で起きる悲惨な出来事の上に、イエスさま。彼らの前に現れてくださり、全てが平和になりますように切に切に祈ります。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祝福して祈ります。
アーメン